京つう

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2007年05月04日

清和天皇社 例大祭 5月3日

JR保津峡駅から府道を北へ約4km。

柚子で有名な水尾の里にたどり着く。その水尾の産土神が「清和天皇社」。

ここも、3基の剣鉾を所蔵している。

街道からはずっと北東に山を登ったところにあり、

粟田山圓覺寺隣りの老人ホームのところから始まる広い参道を登り詰めると、

お社にたどり着く。



立派な、両部(りょうぶ)鳥居である。

お祭りの告知張紙に、神輿飾りつけのお手伝いのお願いが見られます。※後述参照



清和天皇は陽成天皇に譲位の後、出家されて水尾山寺に入定されたところ、

この水尾の地が殊にお気に召して、ここで生涯を全うしたいと仰せになられたそうです。

里人たちはそのことに感激し、この太上天皇のために山寺を造営しようと考えたのです。

寺が出来上がるまで、嵯峨・清霞観の仮住まいで待機されていたが、やがて病になられ、

東山粟田口の円覚寺に移られたのち、そのまま崩御されてしまった。

村人たちは大いに悲しみ、天皇を祭神とする神社を建て、天皇を偲んだのです。

その後、応永年間に粟田口・圓覺寺が焼失したため、その寺宝を水尾山寺に遷し、

寺院名も粟田山圓覺寺と改められたとのことです。




鉾の名称をお聞きしたが、もうわからないとのことで、

金錺からすると、左から鷹羽鉾?・茗荷鉾?・扇鉾?だろうか。

"鷹羽"や"扇"は他神社でも見られる意匠だが、

"茗荷"は合祀されている四所神社の社紋のようです。

茗荷の名は、上御霊で一部金錺だけが残されている茗荷鉾の例を見るだけである。






神額には、「清和天王」「四所権現」の文字が。
左右に、宝永八年(1711年)・辛卯(かのとう、しんぼう)卯月三日の銘が見られる。








茗荷の額部分にぶら下げられている神額は、扇の神額の様です。





拝殿に出された神輿である。

水尾祭の神幸行列は、昭和47年ころを最後に出ていないそうです。

人手が足りず、今年も神輿を神輿庫から出すことすら出来ないかもしれなかったと、

祭の準備をしておられた地元の方が言っておられました。

神輿を支えて、倉庫から神輿を出すのに、6人ほどの手が必要とのことで、

1人60~70kg持つとして、400kg前後の重さがあるかと予想できる。

因みに、お旅所は圓覺寺前辺りであったろうとのことでした。




山から取ってきた榊に幣帛を付け、建てておられる。

ちょうどあられた神職の方にお尋ねしたところ、

神主は、代々愛宕神社が勤めることとなっているとのことでした。

村には宮守がいて、毎月の月次祭などは宮守が勤めている。



社殿は、左が清和天皇社、右が四所神社。






愛宕さんより来られていた神職の方に興味深い話を聞いた。

それは、嵯峨祭のことで、その様子を伝える絵巻物が存在すると言われていました。

残念ながら、その絵巻物は明治期に海外に流出して、

現在フランス?かどこかに所蔵されているとのことでした。

それが以前、日本に里帰りして展示会が開かれたらしいのです。

その時の様子では、絵巻物には、見物人や警護の役人の姿、いろんな風物を交えて、

非常に詳細に祭の様子が描かれているとのことで、長さも相当あったようです。

で、その絵巻物に、神輿への御霊遷しの儀式も描かれていたようで、

それによると、昔は、お山から降りて来られた神霊を、

鳥居本・一の鳥居(平野家)のところでお迎えし、神輿に遷した後、

氏子区域を回ったあと、清凉寺前の御旅所に入られたらしいのです。

それから、お出でとお還りが1か月近くあったようで、非常にロングなお祭だったのです。

一度その絵巻物を見たいものです。



■清和天皇社・四所神社

◆御鎮座地…京都市右京区嵯峨水尾

  

Posted by どせうの寝床 at 11:04Comments(2)清和天皇社