京つう

  歴史・文化・祭り  |  中京区

新規登録ログインヘルプ


2007年04月28日

熊野神社 神幸祭 プレ報告

■熊野神社 神幸祭 4月29日

京洛の熊野三山の一つで、本来の神幸祭は5月16日に執り行われていた。
現在、その日には例祭が行われる。




神幸祭行列は、神社を正午出発。熊野少年勤皇隊の奉賛がある。
神輿は拝殿左側の小型の神輿が巡幸し、元々の神輿は担がなくなって久しい。





剣鉾は、神社の守護で、1基存在する。

鉾名は「烏鉾」。金錺は左右に三羽ずつ八咫烏を配置した意匠となっている。

中央の額には、「熊野皇大神」と書かれている。



飾り付けが予想よりも早く、献酒の影となってしまい全体が見えないのが残念。

次は、片付ける時に詳細を撮影できるかな。

神社でお聞きしたところ、鉾指しをしなくなって何十年のもなるとのことでしたが、

棹は切らずに残されているとのことでした。

私が30年前に調べた時には、既に差さずに拝殿での居祭のみとなっていました。




↓気になるのはこの写真。
  剣先のほぼ中央に、レリーフ状の飾りが貼り付けられている。
  これはあくまでも予想であるが、
  このような形の加工は、
  概して、剣先が折れた場合の補修跡を目隠しし補強をするためのもので、
  烏鉾は、剣先を傷めた経歴を持っている可能性がある。





神社の所在地である旧聖護院村は須賀神社(西天王社)が産土神であり、

当社の氏子町は社地より西寄りの一帯・9ヶ町になる。

御献酒にその町名がみられる。





昔、この一帯に広がっていたという、聖護院の森を感じる佇まいである。





■熊野神社

◆御祭神…伊弉冉尊、伊弉諾尊、天照大神、速玉男尊、事解男尊
◆御鎮座地…〒606-8392 京都市左京区聖護院山王町43

・京洛の熊野三山の一つで、紀州熊野三山の「速玉大社」に相当する。
 因みに、「若王子神社」が那智大社、「新熊野神社」が本宮大社に相当。





同じカテゴリー(熊野神社)の記事画像
熊野神社 烏鉾・神輿飾り付け2011
同じカテゴリー(熊野神社)の記事
 熊野神社 烏鉾・神輿飾り付け2011 (2011-04-26 06:00)

Posted by どせうの寝床 at 08:26│Comments(2)熊野神社
この記事へのコメント
 またまたコンチワ。僕はこの時期、鉾の練習が忙しく他の祭りを見に行く機会がなかなかありません。熊野神社に烏鉾が一式残っているのをはじめて知りました。以前の市教委の調査時の冊子では飾り部分しか写真に写ってなかったので。
 ところで僕は結婚して一、二年はここの氏子町内の新先斗町に住んでいました。名前からも分かるのですが、ここは幕末時は遊郭でした。もうかなり町並みも変わりましたが当時の「刀キズ」が残っている家もありました。いまから十五年前の話ですが。この地域は熊野神社、須賀神社の氏子町内がいりくんでいる所ですが須賀さんは大正年間に吉田神社から分かれて現在の場所に鎮座しました。もとは吉田さんの御旅所であったと聞いています。とするとそれ以前はここの氏神さんはどうなっていたのかな、とも思います。
 本日30日と5月3日は八大では午後一時から五時までの昼間の練習で地元の子供剣鉾の練習もあります。また三日の日には同じ時間に大豊神社のお旅所の前で練習があります。練習を哲学の道への観光客のみなさんにも見ていただこう、という趣旨です。四日の夜は八時から八大神社の集会所で三本の鉾の飾りつけと試し差しがあります。また同じ時間に八大境内では宮座の方々により夜の神輿担ぎがあります。
 
Posted by kacky at 2007年04月30日 07:15
あの市教委の調査時も、
確か昭和59年秋から60年秋の盛り上がりだけで、
あとは静かになってしまいました。
一時は、剣鉾も日の目を見る時が来たか!と思いましたが、
若干期待はずれでした。

そのことからしても、以前に比べて現在の活動は天と地の差です。
地道な積み重ねで、鉾差しさんの裾野が広がりつづけています。
粟田の廉屋会長もおっしゃってましたが、最初はゼロからの出発やったと。

本当に好きなだけでは始まらない、みなさんの努力の賜物だと思います。
ことを始めて継続していくには、どうしても経済的な部分を抜きには考えられないですから、
ほんとうに、これは事業ですね。

須賀神社(西天王社)は、鎌倉末期に戦火を逃れて鎮座地が遷っています。
元々は、現在の平安神宮の中、蒼龍楼のそば(西天王塚)に社があったと言われています。
元弘2年(1332)、吉田の斎場所の内陣に奉斎されたこともあったようで、
その後、慶安元年(1648)に大元宮の西下の地に社殿を造営し、
大正13年に、現在の聖護院円頓美町、昔の西天王社の御旅所のあったところに還座したと、
神社の由緒書にあります。
昔から聖護院村の鎮守であったことは間違いないようですが、
吉田に鎮座していた期間、今宮社と須賀神社が吉田聖護院両村の産土神として、
本社と御旅所の形をとっていたのかも知れませんね。
断っておきますが、
本社が"上"で、御旅所が"下"というのはナンセンスです。

須賀神社には、鳳輦はありますが神輿が無いのも、
吉田今宮社と須賀神社が、本社と御旅所という関係にあったからかもしれませんね。
ですから、剣鉾も非常に血の濃い関係にあると思います。

そう書いていて、今はたと思い出したのですが、
須賀の"剣鉾"と"菊鉾"は、神額が八角形だったような記憶があるのですが。
八角形は、大元宮の八角形でしたよね。
唐胡麻鉾や松鉾の八角形は、大元宮の八角形を模していると、
kackyさんおっしゃっていました。
剣・菊の二鉾は、吉田の影響を受けた鉾のようにも感じます。

また練習に参加させていただきますので、よろしくお願い致します。
Posted by どじょうの寝床 at 2007年05月01日 22:11
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。