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2011年05月27日

蝉丸神社・例祭の剣鉾

2011年5月14日、滋賀県大津市大谷町に鎮座の「蝉丸神社」で、

剣鉾を一基確認することができた。



蝉丸を御祭神とする神社は、逢坂山の峠をはさんで三社鎮座している。

逢坂山から浜大津側へ下っていくと、関蝉丸神社上社・下社の二社があるが、

その神社とは違って、うなぎで有名な”逢坂山かねよ”がすぐそばの蝉丸神社である。

京津線大谷駅から徒歩1分、参拝するには交通至便すぎるロケーションに鎮座している。

氏子区域は、大谷町と追分町で、東西に細長いエリアだが、

一号線と名神高速道路のお陰で、現在の二ヶ町は完全に分断されてしまっている。




毎年5月第3日曜日が例祭で、今年は14日が宵宮、翌日15日が本祭りである。

社務所に、一人で番をしておられたご老人にお尋ねしたところ、

元々は5月23日が祭礼であったという。


この蝉丸神社だが、Web上でも祭礼の情報は非常に希薄で、

剣鉾については当然ながら皆無であった。

しかし、山城と近江の接点、それも日の本一の東海道の街道筋の神社である。

一度は確認しておきたいお祭りであった。

ここで、神社にたどり着いたところに戻って、最初から順に書き進めていく。



神社の前まで来たところで、提燈が出ていたのでひと安心。

これは間違いなく、お祭りの様である。



石段を登りつめて、参道正面から本殿を望むと、神輿らしき姿が見えてきた。

祭礼の飾り付けも、すでに完了している様子である。




歩をさらに進めてゆくと、予想以上に神輿が立派であることがわかった。

剣鉾の有無にかかわらず、ちょっと楽しみが増えたと思いながら近づいていくと・・・

本殿脇に建てられた剣鉾が視野に飛び込んできた。






蝉丸神社の祭礼探訪が叶い、加えて初対面の剣鉾にも出会うことができた。

よくぞ、剣鉾が自分を引き付けてくれたものである。




先にも御紹介した御老人によると、ここ大谷町でも剣鉾(けんぼこ)と呼んでいるとのことであった。

吹散については、地元でどう呼んでいるか、その名は出てこなかった。



この吹散は、三十年ほど前に新調したものとのことで、その前の古いものは所在不明である。

神輿庫の道具箱の中に入っているかもしれない。




お話を伺ったご老人によると、この剣鉾には、**鉾といった固有の呼称はないとのことであった。

大きさについては、採寸できなかったが、剣先が若干短いながらも、

鉾全体の大きさは、京都のものと変わらないと思われる。

見た通り、錺については、剣を八方に広げた形は良く見られる意匠である。





全体を見て、一点気になるところがある。

それは、中央の額にあたる菊御紋と受金(=州浜)の接面である。

本来、この二つの部品は、隙間無く接する様に意匠を施して作られることが一般的である。

しかし、この鉾に関しては、受金のかまぼこ型の形状をした面と、菊の意匠の形状との間に、

不自然な隙間ができている。

それは、別の剣鉾がもう一基存在し、その道具と混在して組まれている可能性を想像させる。

来年にもう一度、飾り付けの段階から立ち合って確認をする必要がある。









鈴(りん)の形状や、縄の長さも、この剣鉾の規模からすると、長く下げられている。

鈴には、銘を確認することはできなかった。






長柄についても、やはりご老人に聴いた話では、

以前はもっと長く、先に写っていた吹散が、地面に付かないほどの長さであったという。

巡幸時には、この枠に担ぎ棒を一本結わえて、前後に一名ずつの担ぎ手が付いた。

そして、長柄の上部(おそらく鈴吊りの環あたり)から縄を二本左右に伸ばし、

担がれた剣鉾が横に倒れない様に、その二本の縄を引っ張り支える者が付いていたらしい。





長柄の漆が剥落しているところに、下地の麻布が見えている。

金錺の紋も、御寄附の門跡か宮家にまつわるものであろうか。





長柄の切断面からすぐ上の右側面に錺が見えている。

長柄の末近くに錺を配するのはおかしい。やはり、短く切断されていることを物語っている。





次に、拝殿上に飾り付けられた、御神宝と神輿に目を向けてみよう。



一番左端が吹散りの箱らしく、表に”霊鑑寺宮御寄附”と書かれていた。

蓋裏には、銘はなかった。










本神輿は、居祭りになって久しいと聞いた。

巡幸が行なわれていたのは、戦時中(昭和17~20年)までで、

戦後になって巡幸を再開するために、警察署に道路使用許可の申請を行ったところ、

許可が下りなかったらしい。

理由は、主要幹線である国道一号線の交通量からすると、交通事故をまねく危険を伴うとことと、

剣鉾や神輿などの巡幸行列を通すために、通行遮断ができないというものであった。

しかし、戦後一度だけ、巡幸が復活した年があった。

それは、名神高速道路の建設中のことであったが、

この一帯の工区を建設担当していた間組の現場の人たちが、

是非、神輿を舁かせてほしいという申し出があり、実現したという話であった。













神輿の底の何か書かれていたが、判読できなかった。








神輿庫のすぐ傍らに、この様な碑が建っていた。

最初は、本神輿の碑かと思ったが、伺ったところによると、子供神輿が別にあるらしい。

その神輿は、この祭礼で、追分町のお旅所(自治会館)に奉安されていて、

昭和十二年に京都岡崎で、当時のお金で三千円を出して買い求めてきたものという。

それを記念しての碑だったのだ。




それで、蝉丸神社を後にしてすぐ京都に向かわず、追分町自治会館を訪ねてみることにした。






こちらが、追分町自治会館である。



可愛くも貫禄のある神輿の台車である。




館内で、お飾りの番をしながら、集まっておられた氏子の方々に、

神輿の撮影の許可をいただき、上がらせていただいた。



子供神輿というだけに小振りな神輿ではあるけれども、なかなかいい神輿である。

また珍しいのは、六角形をしている。

さらに変わっているのは、胴の部分の基壇が一段高くなっていて、高欄が二重になっている。

手の込んだ造りになっているのだ。

仏壇の産地で有名な彦根方面では、仏壇を思わせる程に精巧な匠の技が、

惜しみなく注ぎ込まれた神輿を、多く見つけることができる。

その雰囲気に、ちょっとばかり似ている。




柄は小さくとも、雰囲気充分の神輿である。

岡崎で買い求めたというのも、何かの展示会に出品されていたものらしく、

その場で交渉をして、買い取ることができたらしい。












神輿の底に、銘を見つけることはできなかった。




さあ、大谷町蝉丸神社のあと、次の予定地へ急がなければならない。

この後の探訪ルートは、

清閑寺山王神社~ゑびす神社~今宮神社・蓮鉾(芝大宮町)飾り付けへ。

予想を越えて、様々な物と人に出会ってお陰だが、これも貴重な出会いであった。

  


Posted by どせうの寝床 at 03:18Comments(0)蝉丸神社(大谷町)