三嶋神社『神幸祭』 2009年9月20日

どせうの寝床

2009年09月22日 09:00

剣鉾・秋祭りのトップを切って、
ここ三嶋神社の神幸祭が好天に恵まれた9月20日執り行われました。
毎年、雨がよく降る三嶋の祭礼ですが、今年はビックリするような秋晴れで、
天気が良過ぎて暑いくらいでした。
先日からの台風の余波で風が強く、
少々、風にあおられる場面もあったとのことでした。



”あったとのことでした”と、また聞きの様な表現になってしまってますが、
残念なことに、鉾差を見ることができなかったのです。
今年から子供神輿の先導として剣鉾が付くことになり、
12時00分から1時間程で巡幸を終えてしまわれていたのです。
駆けつけた時間が午後1時。タッチの差で終わっていました。
それに、なんと吹散りを着けての巡幸だったそうです。
何とも無念でしたが、来年こそはリベンジです。



ご覧の様に、今年は3基ある内の菊鉾が供奉しました。
22日の泉涌寺での”奉祝今上陛下御即位20年・剣鉾奉賛”でも、
三嶋神社からはこの菊鉾が出るとのお話でした。
長柄は、去年と同じものですが、もともと菊鉾の長柄ですから、
これが本来の姿というわけです。





昔から代々、永きに渡り鉾差しの技を受け継ぐ鉾差しの方々です。





三嶋神社の御神紋を中央に、両脇を鰻が描かれた法被がとても可愛いです。
大放生祭を執り行い、うなぎの供養が行われることで有名。
それで、鰻が描かれているのです。





三嶋神社の宮司にお聞きしたところ、
この菊鉾が一番鉾を務め、続く二番鉾が獅子牡丹鉾、三番鉾が松鉾とのことでした。




この十六菊の御紋からもわかる通り、皇室とも縁の深い妙法院門跡の御寄附です。




鉾差しさんに、しばし持ったままストップしていただきました。ありがとうございました。
おかげで、しっかり撮れた製作年月の銘。




「癸未(みずのとひつじ)・元禄十六年(1703年)九月吉日」の銘が見えます。
この菊鉾が3基のなかで最も古く、二番鉾の獅子牡丹鉾が文化年間(1804~1817)、
三番鉾・松鉾はそれに準じるとのお話でした。
ただ、その松鉾は、痛みが相当進んでおり、
残念ながら、すぐに差せる様なコンディションではないとのことでした。




上馬町の神社前から渋谷街道をさらに東へ行って、
旧道を進んだところに剣鉾の当家飾りがありました。




去年巡幸に出た獅子牡丹鉾のお飾りです。
吹散りも飾られていました。




三嶋神社の御神紋。




獅子牡丹の牡丹の紋。



馬町交差点まで降りた神輿が戻ってきた。
東山小学校に入って小休止。





輿丁の中に、粟田神輿会の方がおられた。
背中に、18基の剣鉾の名がプリントされている。カッコよろしなぁ~。
ただ、この方曰く「剣鉾の名前が2ヶ所間違うてんねん。」
さあ、間違い探しのクイズです。
2ヶ所はどこかわかる人はコメント下さい。




さあ出発して、神社まであと僅か。





上馬町の交差点から神社・社務所前へ入って、思う存分に神輿が練られていました。





獅子牡丹鉾の鉾当家飾りの片付けが始まりました。



お手伝いもしながら、撮影させていただきました。




トラックに載せて、神社へ持って帰られました。




この片付けの時、宮司に伺うことが出来たのですが、
三嶋神社の剣鉾3基の”まねき(剣先)”とも、この画像の獅子牡丹鉾の様に、
少し短めの寸法のものなのだそうです。
現在の感覚では、一般的に留守鉾や荷鉾の剣先の長さに相当します。
つまり、この長さの剣先になってくると、剣を前後に振って鈴を往復で鳴らす差し方である、
現在の鉾差スタイルでは差すことができないのです。
振り子の原理と同じく、剣先が短いと振幅のリズムが早くなってしまい、
鈴の往復のリズムと調子が合わなくなってしまうのです。
前に、粟田神社拝殿竣功奉告祭の記事でも書きましたが、
剣鉾が長大化してゆく経過を見るようだと。


◆これは一つの仮定ですが、箇条書きで羅列してみます。
A)江戸時代のある時期までは、剣先は然程長いものではなかった。
B)よって、江戸時代のある時期までは、鉾の差し方が現在とは異なっていた。
C)現在、留守鉾といわれて飾るのみになっている剣先の短い剣鉾たちも、
 昔は当時の差し方で巡幸に出ていた。
D)現在、荷鉾化している剣鉾たちは、新しい差し方に移行するのを望まず、
 古来の短い剣先の姿を残す方を選択した。
 ところが、差し手である鉾差しの意識は、現在の剣先を大きく前後にしならせながら、
 鈴を前後で鳴らすスタイルを好む者が、時代とともに増えたいった。
 つまり、技の冴えを披露できる華やかな差し方が鉾差にも好まれ、台頭する結果となった。
 そのことで、短い剣先を持った剣鉾を差す鉾差しがどんどん減り、
 その差し方や技術そのものが消えていった。
 そして残った短い剣先の剣鉾は、荷鉾となるか巡幸には出ない居祭りとなっていった。
E)洛中の神社祭礼では、そういった鉾差し技術の変化が起こったが、
 その洛中の祭礼に鉾差を供給していた地域(一乗寺から吉田・鹿ケ谷にかけて)でも、
 剣鉾は必然的に長大化することとなった。
F)昔から地元で鉾差を行い、かつ都へ鉾差を供給もしていなかった地域は、
 その影響を受けることなく、古い鉾差しの姿を伝え残しながら、
 独自の発展をしていったのではないか。
 具体的には、嵯峨祭や梅ケ畑の平岡八幡宮、旧京北町の山国神社、
 さらに大津市瀬田の若松神社に見られる鉾差しがそれではないか。

江戸期の名所図会や各祭礼絵図などでは、
現在は荷鉾となっている今宮神社や上御霊神社の剣先の短い剣鉾の全てが、
鉾差しによって差されて巡幸している姿が多く残っている。
その絵図に描かれている鉾差しの腕の形や長柄の持ち方が、
嵯峨祭や山国神社のそれと酷似している。
特徴的なのは、長柄を持つ両手の内、上方の手の位置が頭よりも高い。

また、この獅子牡丹鉾の剣先も、短い剣先にも関わらず、
下記画像のように、充分に使い込まれることで発生するクラック(ひび割れ)が見て取れる。
このクラックは、切り込みの角部分が金属疲労を起こし次第に進行して行くが、
切り込みの角に振動が集中することで、
曲げの負荷を繰り返し掛け続けるのと同じ現象を生み、
耐え切れなくなった金属部材がひび割れを発生させる。




◆三嶋神社
 京都府京都市東山区渋谷通り東大路東入上馬町


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