【回想】御香宮・伏見祭1981年

どせうの寝床

2009年11月16日 22:06

昔に撮影したフィルムなどが入っている祭り関連のBOXを、久々に虫干ししてみることにした。

出てきたのは、25~30年程前の剣鉾祭りの風景である。ただフィルムのままプリントすることなく仕舞い込んでいた画像資料たちである。
ネガフィルムを明かりに透かしてみると、忘れていた祭りや剣鉾の姿が撮影されている。
少しずつスキャンしてデータ化できたものから記事にしてゆきたい。



今回は、昭和56年(1981)10月9日の御香宮の伏見祭宵宮での【金鉾/かなほこ】である。

“かなほこ”という祭具名は、この御香宮・宵宮に社務所を尋ねたとき初めて聞く名称だった。その時、非常に印象に残り、記録帳にそのことを書き残していた。

しかし今年の伏見祭の折、御香宮でお尋ねたしたところ、会話の中で剣鉾という名称は出てきても、ついに金鉾の名称は出てこなかった。

あくまでも推測の域だが、昭和59年の市の調査以前は、数々の剣鉾・金鉾に対して、文化財として注目を集めることもなく、祭りそのものにも眼を向けられることもまた皆無であった。しかしその調査以降、“けんぼこ”という名称がメディア上でしばしば紹介されることになり、平成に入るとその頻度は更に加速していった。
そんな状況の中、“けんぼこ”という名詞が社会的に認知されるようになることで、各神社でも鉾の形状をした祭具のことを“けんぼこ”と呼ぶことの標準化が成されいったのではないか。そして、“かなほこ”という固有名詞が駆逐されてしまったのではないかと、考えたりもするのである。



伏見九郷の大祭が、御香宮のお祭りである。
現在は、お還りが10月の第二日曜となっているが、当時は10月10日(旧・体育の日)であった。
境内には、見世物小屋が店を開き、ろくろく首や大イタチなどなど、見事な口上で紹介しながら客寄せをしていた。なんともおどろおどろしい、怖いけど見てみたい、見てみたいけど怖い、そんな雰囲気が面白かったのを思い出す。





まず、御香宮の金鉾を見て欲しい。鉾全体の基本構造は剣鉾と同じである。
中央は、州浜型の額を設けて、左右に立体的な菊花を配し、平板でつぼみと枝葉の錺としている。剣先の形状は、風切り穴は根元近くまで降りていて、先端の縁の迫り出しも小さく、古式の鉾に見られる姿がうかがえる。受金には橘・桐(五三か五七か?)・二つ引き両の三種の紋が付けられている。







しかし、剣鉾とは仕様が異なっているのは一目瞭然である。それは、鈴(りん)の代わりに大きな鈴(すず)がブラ下がっているということである。






さらに、長柄にはナツメ(打ち金)がない。鈴(すず)なら長柄に打ち当てて鳴らす必要はなく、ナツメは必要ないということである。しかし、鈴(すず)は後から追加したものであるということも考えられるのである。
ここ御香宮のすぐお隣の三栖神社の剣鉾5基が、この金鉾に酷似している。しかし、剣鉾としての鈴(りん)も御香宮・金鉾のような鈴(すず)も付いていない。当然、長柄にはナツメ(打ち金)は装備されていないのである。
お祭りの中での、これら鉾たちの役割がどうだったか、そこにヒントがあるかもしれない。
神輿がこれから進む神幸道を祓い清め進むという役割よりも、祭りの行列が威容を誇るための道具としての位置づけが強かったか?

三栖神社の剣鉾5基については、近日中に記事にしてUPするのでしばしお待ちいただきたい。




当時、祭礼時には拝殿の西側面に、ずらりと9基の金鉾が並べられていた。9基とも金錺の意匠はまったく同一であったと記憶している。現在のデジカメなら、全ての鉾をカメラに収めておくのだが、当時は上限36枚撮りのフィルムである。そこは省エネ撮影をしてしまったのである。





この昭和56年当時、金鉾9基はすでに巡幸には供奉せず、居祭りの状態であった。
確認は出来ていないが、金鉾が9基あるのは、伏見九郷で一郷に一基の金鉾が充てられているというものか。







さすが28年前である。写っている子供や大人の、シャツの着こなし方に時代を感じる。
現代ならば、ズボンの中にシャツは入れずに出すところだが、みんなきっちり収めているのは面白い。

以上、数枚の写真のみだったが、金鉾の貴重な姿を再び確認することが出来た。
今年の祭礼時に神社でお聞きしたところ、もう17~18年は飾りつけはしていないとのことだった。
平成2~3年を最後に、居祭りもされなくなったということになる。
確かに、9基の飾りつけは簡単そうに見えて、かなりの重労働である。

以前の伏見祭の中心は花傘であった。最盛期には何百という数が出ていたようであるが、現在は神輿中心の祭りとなっている。
さらに、肥後町には”占出山”という曳山も存在していた。お囃子もあって、以前にお囃子符本が見つかったこともお知らせした。
 「御香宮神幸祭・幻の曳山「占出山」お囃子符本」

祭りは生き物であって、時代によってその意味も姿も変わってゆくのである。
しかし、そんな中で”金鉾”の存在と役割が忘れ去られてしまったのは残念である。

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