2007年10月17日
御香宮神幸祭・幻の曳山「占出山」お囃子符本
伏見九郷の総鎮守である『御香宮』のお祭は、
昔から「伏見祭」と呼ばれ、その規模と賑わいは現代の今でも洛南随一の大祭です。
"伏見"は、京と大坂を繋ぐ大中継地で、
京都とは違う"城下町"としての性格を持ちながら、独自の発展をしてきました。
(昭和4年5月1日~6年3月31日までの約2年間、伏見市として市制もしいていました)
さて、その伏見を代表するお祭である「伏見祭」は、
現在、神輿と花傘が多く出ています。
その傍らで、やはり"剣鉾"が存在していました。
昔、九郷の一郷ごとに神輿を出していたということでしたので、
その神輿にそれぞれ付いていたのか、それとも9基が列を成して巡幸していたのか、
どんな形態で、神幸列に加わったいたかは不明です。
最近では、もう祭礼に飾り付けられることもなくなっているという噂ですが、
今から20年ほど前、私が伏見祭の宵宮に訪れたところ、
社殿に立て掛けるようにして、9基の鉾がずらりと等間隔に並べられていたのを思い出します。
その鉾は全て同形で、一般的な剣鉾よりやや小振りで、
確か、名称を"金鉾(かなほこ)"と呼んでいたように記憶しています。
さてさて、前置きが長くなりました。
本題の曳山の話ですが、ここ御香宮には明治期まで、
『占出山(うらでやま)』という曳山(ひきやま)が存在しており、
お囃子もあったのです。
その規模は、祇園祭の舁山(かきやま)の占出山と同等クラスで、
それに御所車が着くので、高さはもう少しあったものと思われます。
◆伏見区ニュース・ふしみ昔紀行 「占出山鮎祝女御(あゆわいにょうご)(肥後町) 」
◆伏見区あれこれ・懐かしの写真館「肥後町の占出山」」
その占出山のお囃子の符本を拝見する機会に恵まれ、
撮影もさせていただきました。
20頁ほどの小冊子で、今で言うと、ちょうどA5位の大きさでした。
その一部をここでご紹介したいと思います。曲数は、全部で13曲ほど書かれているようです。
萬延元年(1860年) の原本を、明治16年頃に書き写したものと思われます。
昔から「伏見祭」と呼ばれ、その規模と賑わいは現代の今でも洛南随一の大祭です。
"伏見"は、京と大坂を繋ぐ大中継地で、
京都とは違う"城下町"としての性格を持ちながら、独自の発展をしてきました。
(昭和4年5月1日~6年3月31日までの約2年間、伏見市として市制もしいていました)
さて、その伏見を代表するお祭である「伏見祭」は、
現在、神輿と花傘が多く出ています。
その傍らで、やはり"剣鉾"が存在していました。
昔、九郷の一郷ごとに神輿を出していたということでしたので、
その神輿にそれぞれ付いていたのか、それとも9基が列を成して巡幸していたのか、
どんな形態で、神幸列に加わったいたかは不明です。
最近では、もう祭礼に飾り付けられることもなくなっているという噂ですが、
今から20年ほど前、私が伏見祭の宵宮に訪れたところ、
社殿に立て掛けるようにして、9基の鉾がずらりと等間隔に並べられていたのを思い出します。
その鉾は全て同形で、一般的な剣鉾よりやや小振りで、
確か、名称を"金鉾(かなほこ)"と呼んでいたように記憶しています。
さてさて、前置きが長くなりました。
本題の曳山の話ですが、ここ御香宮には明治期まで、
『占出山(うらでやま)』という曳山(ひきやま)が存在しており、
お囃子もあったのです。
その規模は、祇園祭の舁山(かきやま)の占出山と同等クラスで、
それに御所車が着くので、高さはもう少しあったものと思われます。
◆伏見区ニュース・ふしみ昔紀行 「占出山鮎祝女御(あゆわいにょうご)(肥後町) 」
◆伏見区あれこれ・懐かしの写真館「肥後町の占出山」」
その占出山のお囃子の符本を拝見する機会に恵まれ、
撮影もさせていただきました。
20頁ほどの小冊子で、今で言うと、ちょうどA5位の大きさでした。
その一部をここでご紹介したいと思います。曲数は、全部で13曲ほど書かれているようです。
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萬延元年(1860年) の原本を、明治16年頃に書き写したものと思われます。
Posted by どせうの寝床 at 22:35│Comments(0)
│御香宮