第一回 「京都の剣鉾」講演会・見学会 開催 1月23日

どせうの寝床

2011年01月26日 02:19

 
1月10日の記事でご案内していた、

第一回 京都の民俗文化「京都の剣鉾」講演会・見学会が、

このところの寒さも少し緩み、好天に恵まれた1月23日、

講演会場:京都造形芸術大学と、見学会場:八大神社境内において開催された。

大きな会場(500人位入る?)にもかかわらず、立ち見が出る程の大盛況であった。

まず、プログラム通り、京都市文化財保護課長・開会のご挨拶に始まり、

出雲路先生「京都の剣鉾行事の諸相」、末松先生「一乗寺八大神社について」と講演が続いた。


出雲路先生は、剣鉾を研究することになった経緯から、

私の知らない昔の剣鉾祭りのことや、昭和59年当時の京都市の調査について、

また、アスニーで行われた「京の祭の遺宝・剣鉾の伝統展」のこと、

京都国体での洛中洛外の剣鉾競演のことなど、面白いエピソードを交えながらお話いただいた。


末松先生は、短時間ではあったが、

一乗寺に関する文書・古地図をスライドで紹介しながら、

一乗寺と皇室(霊元上皇)との関係に着目して、

当時の一乗寺の姿や、八大神社の祭礼・剣鉾についてお話になった。

そのあと、休憩をはさんで、参加者全員徒歩にて八大神社へ移動した。



まず着いてみて、境内の人の多さには驚かされた。

日の丸が揚がっていないのと寒さに目をつぶれば、5月の祭礼時と見まがうほどの賑わいである。





最初に、八大神社・竹内宮司から、ここ八大神社の由緒や御祭神のことなどお話があった。





そのあと、八大神社剣鉾差保存会・大西先生自らマイクを持っての剣鉾解説講義が始まった。





参集殿に、金屏風を背にして、美しく飾られた菊鉾(左)と龍鉾(右:りょうぼこ)。





それぞれの剣鉾の解説が終わって、

今度は、鉾差しの練習では必ず行う、足の練習風景が披露された。

今回、写真を撮りもらしているが、

当ブログで、今までの練習風景を見ていただいたら、必ず見られる光景である。

鉾差し全員で、一列に連なって、”鉾差しステップ”と呼べるだろうか、

独特の足の練習を、丹念に繰り返すのである。

これは、初心者はもちろんのこと、熟練の鉾差しも入念に行う。

その動きを、体に叩き込むのである。

特に、重要な蹴り足になる、左の脹脛(ふくらはぎ)のストレッチ体操の意味も含まれている。




いよいよ、鉾差しの実演である。

鉾差し三人が一組になって、鉾の建て降ろしを行う。



◆【一番右の鉾差し】の動作を、”根を踏む”というが、

棹(長柄)の根(地面に付いている部分)をつま先で踏み、しっかりと地面に押さえ込む。

右手は、つま先から棹が外れない様に押さえ、

左手は力を入れずに建ち上がってくる棹を呼び込む様に添えているだけである。

もしこの時、根がずれたり地面から浮いたりしたならば、鉾頭に重量が集中している剣鉾は、

両腕を高く上げた、三人目の鉾差しの手を支点にして、鉾頭は地面に叩きつけられることになる。

まさに、シーソーの原理である。


◆【真ん中の鉾差し】の動作は、”根を巻く”という。

左腕に体重を載せながら、やはり棹を押さえ込み、右腕で建ち上がってくる鉾の方向を制御する。

電線や障害物が多く、狭い場所で建て降ろしをする場合、

特に剣先の上がってくるラインを見ながら、右腕でコントロールするのである。

だから、視線は常に鉾先を見ている。 また、決して力任せに腕を引き付け、早く建てようとしない。

つまり、引き付けを強くすると、棹の撓りを大きくさせることになり、

破断を招く危険を大きくすることになるのだ。


◆【左の鉾差し】の動作は、”棹を伝う”というが、鉾を建て降ろしする際の主動力となる。

”つたう”という言葉が示す通り、両の手でポンポンと拍子を付けて棹を弾ませない。

上下動のない静かな足の運びで、手を交互に繰り出し、跳ねは極力殺すのだ。

建て降ろしする時、棹は見ていてわかるほどに撓り湾曲する。

だから、跳ねる様に手足を運ぶと、鉾の重量は倍加して棹の撓りを増幅させることになる。

最悪の場合、真っ二つに棹は折れることになるのだ。

さらに、両肘は曲げず、伸ばした状態で棹を伝ってゆく。

曲げていると、鉾の重さに腕が負けてしまい、途中で棹を押し切れなくなるのだ。


そうして見てゆくとわかる様に、三者の力が満遍なく棹から鉾に伝わり、

見事に剣鉾を建たせている。

突出した力の集中は、逆に剣鉾を破壊することにつながるのだ。




実演に差されている剣鉾は、柏鉾(かしわぼこ)である。

八大さんの剣鉾三基の中でも、もっとも素直で差しやすい鉾である。

まず、腰の落とし込みや左足での蹴りを入れず、ただ歩みを進めるだけでの見本を披露された。





次に、大西先生が腰の落とし込みと蹴りを加えて、その違いを見せられた。






次は、見学会に参加の皆さんにも体験していただくコーナーである。

見るのと、実際にするのとは大違い。

希望者全部で10人近くの方に体験していただくことができた。

やってみて初めてわかる感覚を、驚きと感動を持って楽しんでいただけたのではないだろうか。

ちょうどバランスが取れた状態にすることを「芯を出す」というのだが、

その状態を保てば、剣鉾の体感重量は驚くほどに軽くなる。

腰の差し皮に全重量が載って、腕や肩はフリーの状態になるのだ。

しかし、ひと度そのバランスが崩れて傾くと、その重みが一気に腕や肩にかかってくる。

その瞬間、とてつもない恐怖が襲い掛かってくる。

私も習い始めた頃、差し皮に鉾を載せてもらい、前に二三歩進んだはいいが、

剣鉾が傾きだして慌てるシーンが何度もあった。

その際、いつも周りから声を掛けてもらったのが、

「最後の最後まで絶対にあきらめんな。力抜いたらあかんでぇ。」

「お前があきらめたら、誰も鉾を保てへんからなぁ。」ということだった。

慣れない内は、鉾が傾きだすと恐怖心が先立ち、周りの誰かに委ねたくなる。

しかし、そこをぐっとこらえて、自分で鉾を保つのだ。

自分の差し皮に棹が納まって、「はい、貰うた」という言葉を発したその瞬間から、

剣鉾の運命は、すべて自分に掛かってくるのだ。

そして、氏子が見守る晴れ舞台で、いかに素晴らしい技を見せることができるか、

それは、日頃の鍛錬から生まれる技が花開き、努力が結実する瞬間なのである。

その一瞬一瞬が、鉾差しの醍醐味であるだろう。

この気持ち・やり甲斐・情熱は、時代が移っても変化することがないだろう。

いや、現代よりも、もっと強かったかもしれない。





最後に、剣鉾が祭礼において巡幸するときの正装と呼ぶべきだろうか、

吹散(ふきちり)を付けて鉾差しが行なわれた。

吹散を付けると風の影響を受けやすくなり、非常にバランスを取るのが難しくなる。

通常の巡幸路においては、ほとんどは吹散を付けずに進んでゆくが、

行列が神社へ還幸する、最後の舞台に花を添える様に吹散を付けて巡幸する場合もある。

あるいは、神幸の最初、氏子が大勢居並んだ参道を、お祭りの行列は神社を出発してゆく。

その先頭を、吹散を後に長く延ばした正装で、厳粛に進み行く剣鉾の姿も見られる。

剣鉾それぞれに、織・染など様々に、色柄の異なる吹散を付けて巡幸する姿は、

剣鉾を見慣れた者でも、なかなか見応えのあるものである。





参集殿に飾られていた剣鉾をご紹介していこう。

◆菊鉾(きくぼこ)





◆龍鉾(りょうぼこ) 



龍鉾の鉾名札の右側に置かれているのが、龍鉾の旧剣先。

剣尻(棹に差し込まれる細い部分)を除いた長さが、採寸1420mm。剣尻は採寸漏れ。

下の画像では、二本見える右側がそれ。剣尻の先端の色が僅かに明るく、材質が異なる様にも見える。

延長加工の痕跡かもしれない。

下に書いているが、菊鉾の現役剣先の一つ前の古い剣先に見られる、

80mmほどの延長加工の状態と酷似している。

同時期に、延長加工を施した可能性も考えられるか。




龍鉾の古鉾の錺。 額は綺麗に分解して展示されていた。






文化十三年(1816)三月吉祥日 御額新調の銘が見える。

その裏を返すと、やっぱりこの人である。

『洛東建仁寺町松原上ル 錺師 丸屋庄左衛門冶常 作之』と読める。

この工房からは、京都の剣鉾の多くが生み出されている。

場合によっては、「建仁寺住 西村庄左衛門」などの銘で書かれていることもある。

名は、”治常”と書かれたものもあるが、錺師ゆえに冶金の”冶”を当てたのだろうか。




















菊鉾の左側に置かれていた二本の剣先である。

どちらも菊鉾のものであるが、左側は練習用のステンレス製の剣先で、

右側が菊鉾の旧剣先である。



片付けられる寸前の隙間を縫って、採寸させていただくことができた。

旧剣先の採寸結果は、先端から剣尻(棹に差し込まれる細い部分)を除いた長さが、

なんと1320mm。 剣尻の長さが490mm。

現在装備されている剣先の長さが、1460mmであるから140mmも短いのである。

私がちょうどこの旧剣先を眺めている時、吉田の剣鉾保存会の方がお隣に居られて、

二人で口を合わせて「短いなぁ・・・」と、言ってしまった。

一目瞭然であるが、この長さの剣先では、現在の鉾差しの形では、まったく差すことができないだろう。

短い剣先に、剣尻の延長加工の痕跡がセットになって見られる剣先の存在は、

鉾差しの形態の変遷を考える上で非常に重要な証拠となる。



剣尻は、鉄板でサンドイッチにして補修されているので、元の剣尻の表面を見ることができない。

製作年の銘が残されている可能性が高い。

鉄板面に残された銘により、昭和二八年四月四日の修理であることがわかる。

これも、おそらく延長加工を主目的とした修繕補修であろう。

剣尻サイド面の継ぎ目を確認できる部分のアップ撮影を忘れてしまったのが無念である。





この剣先は、菊鉾と龍鉾の間に置かれていた二本である。

左側が、菊鉾・現役剣先の一つ古い剣先に当たるのだろうか。

採寸では、現役とまったく同じ、1460mm。剣尻が460mm。

右側が、柏鉾の旧剣先で、長さが1385mm。剣尻が530mm。

やはり、明らかに短い。1400mmを切っている。




これは、菊鉾・現役剣先の一つ古い剣先の剣尻拡大である。

460mmある剣尻のうち、先端の80mmほどが色が異なり、延長加工の痕跡と考えられる。




こちらは、柏鉾の旧剣先の剣尻で、二度にわたる剣尻の延長加工の痕跡が見られる。




ここにも見える、「錺師・・・・・・・・・門冶常」の銘。

おそらく、”錺師 丸屋庄左衛門冶常”と書かれているのか。




二度にわたる延長加工部分の拡大画像。




今回、普段見ることのできない、貴重な古鉾の部品を、採寸まですることができた。

今後の剣鉾・鉾差しの形態の変遷について考える上で、

さらに多くの事例を観てい期待と考えている。



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