清閑寺 山王神社の剣鉾実見

どせうの寝床

2011年06月03日 22:47

友人の傳兵衛さんから、偶然通りかかった神社で、こんなものがお祭りに出ていたよと、

画像を添えて教えてくれたのが、去年の5月。

その時にアップした記事は「清閑寺・山王神社の剣鉾」

それから一年。

やっと自分の眼で、清閑寺・山王神社の剣鉾を見ることができる時がやって来た。

現在、5月の第二土日曜が祭礼日となっている。







氏子の方にも、その剣鉾やお祭りのことを伺うことができた。

昨年の傳兵衛さんの話に、清閑寺の鎮守社であったということであったが、

お話を伺った方のお爺様が、今よりもっと東の山手に鎮座していた山王神社を、

現在の場所に遷座されたとのことであった。

お話を伺った方をお見かけした感じでは、お爺様ということは、昭和初期・戦前であろうと思われる。

また、氏子が清閑寺池田町と清閑寺山ノ内町の二ヶ町であったものが、

現在は、池田町一ヶ町になっていることも教えていただいた。

これは、山ノ内町の戸数が減少したことから、氏子組織から外れられたとのことであった。

国道一号線・五条バイパスの開通により、清閑寺区域が分断されてしまったことも、

大きな要因であったかもしれない。


さて、肝心の剣鉾のことだが、明確な時代はわからなかったが、

やはり以前より、ここ山王神社の祭礼に出ていた剣鉾とのことであった。

それを、平成に入って修繕してイメージを一新させてとのことであった。

では、剣鉾の各部を見ていこう。



錺の線刻は、牡丹の様に見える。







左右の金錺、額、受金の構造が、瀧尾神社の剣鉾に酷似している。

瀧尾さんの剣鉾は、もともとは短い剣先を装備していたが、剣先を長いものに交換して、

長柄も新たに作り、差し鉾として巡幸に供奉できるように手を加えたものである。

本来の姿は、大きく剣先を撓らせて差す鉾の種ではなかった。

この山王神社の剣鉾も、ほぼ同構造の鉾であることがわかる。





可愛い鈴吊り棒が装備され、打ち金(=棗:なつめ)もちゃんと付いている。

鈴の縄を、打ち金の範囲に当たるように、もう少し短くすればいい音を鳴らしてくれるだろう。


一年前にも書いたが、吹散を付ける金具が、鈴吊り棒と同じ向きに付いているのは疑問である。

修繕の際に、間違って付けてしまったか。

本来は、鈴(りん)は前面にぶら下げ、吹散りは後に垂らすので、

鈴吊り棒と吹散釣り金具は、裏表の位置関係になる。






この部分に、舁き棒を差し込んで荷鉾として供奉する構造になっている。



舁き棒の美しく塗りを施され、金具類も新たに鍍金がされている。




神幸列が巡幸していた当時は、枠に舁き棒を差し込み、人が肩に担いで巡行していたという。

そのお話を伺ったお爺様は、当時、白馬に騎乗されて行列に供奉されていたとのことであった。


神社前には、真榊が立てられている。




境内には、小さいながら立派な神輿が奉安されていた。










本殿前には、御神宝がずらりと並べられている。

神輿の巡幸が行われていた頃は、この道具を一つ一つ人が捧げ持って、

神幸列を調えていたのだ。

なかなか見ごたえのある行列であったろう。








小振りの太鼓の胴に、昭和九年の文字が見える。





神輿の長柄にも銘が見えたが、撮影時には読めた文字であったが、

この画像では何年であったかわからなくなってしまった。

****年五月。

明治三十六年五月???、であっただろうか?撮影した画像を見ればいいだろうと、

メモを取っていなかった。 記憶が定かでない。




この三嶋神社と目と鼻の先の山王神社にも、やはり剣鉾が存在していた。

今回は、ほとんど小走りに立ち寄って、簡単な見聞をするだけに留まった。

来年は、剣鉾の組立時に立会いさせていただき、道具箱の銘などを拝見してみたい。

もう少し詳しく、地元の方にお話を伺う機会も作りたいと思う。













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