2011年06月03日
清閑寺 山王神社の剣鉾実見
友人の傳兵衛さんから、偶然通りかかった神社で、こんなものがお祭りに出ていたよと、
画像を添えて教えてくれたのが、去年の5月。
その時にアップした記事は「清閑寺・山王神社の剣鉾」。
それから一年。
やっと自分の眼で、清閑寺・山王神社の剣鉾を見ることができる時がやって来た。
現在、5月の第二土日曜が祭礼日となっている。



氏子の方にも、その剣鉾やお祭りのことを伺うことができた。
昨年の傳兵衛さんの話に、清閑寺の鎮守社であったということであったが、
お話を伺った方のお爺様が、今よりもっと東の山手に鎮座していた山王神社を、
現在の場所に遷座されたとのことであった。
お話を伺った方をお見かけした感じでは、お爺様ということは、昭和初期・戦前であろうと思われる。
また、氏子が清閑寺池田町と清閑寺山ノ内町の二ヶ町であったものが、
現在は、池田町一ヶ町になっていることも教えていただいた。
これは、山ノ内町の戸数が減少したことから、氏子組織から外れられたとのことであった。
国道一号線・五条バイパスの開通により、清閑寺区域が分断されてしまったことも、
大きな要因であったかもしれない。
さて、肝心の剣鉾のことだが、明確な時代はわからなかったが、
やはり以前より、ここ山王神社の祭礼に出ていた剣鉾とのことであった。
それを、平成に入って修繕してイメージを一新させてとのことであった。
では、剣鉾の各部を見ていこう。

錺の線刻は、牡丹の様に見える。



左右の金錺、額、受金の構造が、瀧尾神社の剣鉾に酷似している。
瀧尾さんの剣鉾は、もともとは短い剣先を装備していたが、剣先を長いものに交換して、
長柄も新たに作り、差し鉾として巡幸に供奉できるように手を加えたものである。
本来の姿は、大きく剣先を撓らせて差す鉾の種ではなかった。
この山王神社の剣鉾も、ほぼ同構造の鉾であることがわかる。

可愛い鈴吊り棒が装備され、打ち金(=棗:なつめ)もちゃんと付いている。
鈴の縄を、打ち金の範囲に当たるように、もう少し短くすればいい音を鳴らしてくれるだろう。
一年前にも書いたが、吹散を付ける金具が、鈴吊り棒と同じ向きに付いているのは疑問である。
修繕の際に、間違って付けてしまったか。
本来は、鈴(りん)は前面にぶら下げ、吹散りは後に垂らすので、
鈴吊り棒と吹散釣り金具は、裏表の位置関係になる。


この部分に、舁き棒を差し込んで荷鉾として供奉する構造になっている。

舁き棒の美しく塗りを施され、金具類も新たに鍍金がされている。

神幸列が巡幸していた当時は、枠に舁き棒を差し込み、人が肩に担いで巡行していたという。
そのお話を伺ったお爺様は、当時、白馬に騎乗されて行列に供奉されていたとのことであった。
神社前には、真榊が立てられている。

境内には、小さいながら立派な神輿が奉安されていた。




本殿前には、御神宝がずらりと並べられている。
神輿の巡幸が行われていた頃は、この道具を一つ一つ人が捧げ持って、
神幸列を調えていたのだ。
なかなか見ごたえのある行列であったろう。



小振りの太鼓の胴に、昭和九年の文字が見える。


神輿の長柄にも銘が見えたが、撮影時には読めた文字であったが、
この画像では何年であったかわからなくなってしまった。
****年五月。
明治三十六年五月???、であっただろうか?撮影した画像を見ればいいだろうと、
メモを取っていなかった。 記憶が定かでない。

この三嶋神社と目と鼻の先の山王神社にも、やはり剣鉾が存在していた。
今回は、ほとんど小走りに立ち寄って、簡単な見聞をするだけに留まった。
来年は、剣鉾の組立時に立会いさせていただき、道具箱の銘などを拝見してみたい。
もう少し詳しく、地元の方にお話を伺う機会も作りたいと思う。
画像を添えて教えてくれたのが、去年の5月。
その時にアップした記事は「清閑寺・山王神社の剣鉾」。
それから一年。
やっと自分の眼で、清閑寺・山王神社の剣鉾を見ることができる時がやって来た。
現在、5月の第二土日曜が祭礼日となっている。



氏子の方にも、その剣鉾やお祭りのことを伺うことができた。
昨年の傳兵衛さんの話に、清閑寺の鎮守社であったということであったが、
お話を伺った方のお爺様が、今よりもっと東の山手に鎮座していた山王神社を、
現在の場所に遷座されたとのことであった。
お話を伺った方をお見かけした感じでは、お爺様ということは、昭和初期・戦前であろうと思われる。
また、氏子が清閑寺池田町と清閑寺山ノ内町の二ヶ町であったものが、
現在は、池田町一ヶ町になっていることも教えていただいた。
これは、山ノ内町の戸数が減少したことから、氏子組織から外れられたとのことであった。
国道一号線・五条バイパスの開通により、清閑寺区域が分断されてしまったことも、
大きな要因であったかもしれない。
さて、肝心の剣鉾のことだが、明確な時代はわからなかったが、
やはり以前より、ここ山王神社の祭礼に出ていた剣鉾とのことであった。
それを、平成に入って修繕してイメージを一新させてとのことであった。
では、剣鉾の各部を見ていこう。

錺の線刻は、牡丹の様に見える。



左右の金錺、額、受金の構造が、瀧尾神社の剣鉾に酷似している。
瀧尾さんの剣鉾は、もともとは短い剣先を装備していたが、剣先を長いものに交換して、
長柄も新たに作り、差し鉾として巡幸に供奉できるように手を加えたものである。
本来の姿は、大きく剣先を撓らせて差す鉾の種ではなかった。
この山王神社の剣鉾も、ほぼ同構造の鉾であることがわかる。

可愛い鈴吊り棒が装備され、打ち金(=棗:なつめ)もちゃんと付いている。
鈴の縄を、打ち金の範囲に当たるように、もう少し短くすればいい音を鳴らしてくれるだろう。
一年前にも書いたが、吹散を付ける金具が、鈴吊り棒と同じ向きに付いているのは疑問である。
修繕の際に、間違って付けてしまったか。
本来は、鈴(りん)は前面にぶら下げ、吹散りは後に垂らすので、
鈴吊り棒と吹散釣り金具は、裏表の位置関係になる。


この部分に、舁き棒を差し込んで荷鉾として供奉する構造になっている。

舁き棒の美しく塗りを施され、金具類も新たに鍍金がされている。

神幸列が巡幸していた当時は、枠に舁き棒を差し込み、人が肩に担いで巡行していたという。
そのお話を伺ったお爺様は、当時、白馬に騎乗されて行列に供奉されていたとのことであった。
神社前には、真榊が立てられている。

境内には、小さいながら立派な神輿が奉安されていた。




本殿前には、御神宝がずらりと並べられている。
神輿の巡幸が行われていた頃は、この道具を一つ一つ人が捧げ持って、
神幸列を調えていたのだ。
なかなか見ごたえのある行列であったろう。



小振りの太鼓の胴に、昭和九年の文字が見える。


神輿の長柄にも銘が見えたが、撮影時には読めた文字であったが、
この画像では何年であったかわからなくなってしまった。
****年五月。
明治三十六年五月???、であっただろうか?撮影した画像を見ればいいだろうと、
メモを取っていなかった。 記憶が定かでない。

この三嶋神社と目と鼻の先の山王神社にも、やはり剣鉾が存在していた。
今回は、ほとんど小走りに立ち寄って、簡単な見聞をするだけに留まった。
来年は、剣鉾の組立時に立会いさせていただき、道具箱の銘などを拝見してみたい。
もう少し詳しく、地元の方にお話を伺う機会も作りたいと思う。
2010年06月28日
清閑寺・山王神社の剣鉾
新たな剣鉾を、京都市内に見つけた。
友人の傳兵衛氏が、
今年の5月16日に偶然、渋谷道の山王神社前を通りかかったところ、
お祭をやっているのに出くわした。
すると、剣鉾らしきものを発見したそうだ。
普段から、事ある毎に剣鉾々々と言っている私を思い出してくれて、
わざわざこうして画像をカメラに収めてきてくれた。
清閑寺・山王神社は、渋谷通を馬町から三島神社をすぎてさらに東へ上っていく。
すると、道路は正林寺のところで旧道と新道に別れる。
その左手の細い旧道に歩を進めていくと、やがて山王神社が左手(北側)にみえてくる。
傳兵衛氏の話では、この山王神社は、もともとは清閑寺の鎮守社であったという。
私は、この山王神社のことを、三島神社の御旅所と思い込んでいた。
ところが、独自に祭礼を行い、また剣鉾もあったのだ。
画像からしか判断できないが、真新しく見える鉾の姿と、
裾幕に平成6年の文字がみえることから、新しい鉾の可能性も考えられる。
或いは、古くからあったものを、この年に修繕復調して、
祭礼に供奉するようにしたものとも考えられる。

面白い構造をした荷い枠である。
神輿のように、朱の高欄が四面に付いている。

鈴(りん)吊り棒と吹散を掛ける金具が同じ側に付いているので、
正面がどちらになるのかがハッキリしない。
しかし、据え置く鉾として見たら、吹散=幡(ばん)は全面に垂らすことになる。
しかし、巡幸時の荷い枠には、見送りを掛ける鳥居が付いている。
見送りを後に流す形で巡幸するのかもしれない。
その場合は、鈴(りん)は止むを得ず、後ろ側に吊るす形になってしまう。
その辺りの構造に、据え置く鉾なのか、神輿に供奉して巡幸する剣鉾なのか、
構造上の問題はあるものの、なかなか面白い発見である。
氏子の方に剣鉾に関してお尋ねしてみたい。

友人の傳兵衛氏が、
今年の5月16日に偶然、渋谷道の山王神社前を通りかかったところ、
お祭をやっているのに出くわした。
すると、剣鉾らしきものを発見したそうだ。
普段から、事ある毎に剣鉾々々と言っている私を思い出してくれて、
わざわざこうして画像をカメラに収めてきてくれた。
清閑寺・山王神社は、渋谷通を馬町から三島神社をすぎてさらに東へ上っていく。
すると、道路は正林寺のところで旧道と新道に別れる。
その左手の細い旧道に歩を進めていくと、やがて山王神社が左手(北側)にみえてくる。
傳兵衛氏の話では、この山王神社は、もともとは清閑寺の鎮守社であったという。
私は、この山王神社のことを、三島神社の御旅所と思い込んでいた。
ところが、独自に祭礼を行い、また剣鉾もあったのだ。
画像からしか判断できないが、真新しく見える鉾の姿と、
裾幕に平成6年の文字がみえることから、新しい鉾の可能性も考えられる。
或いは、古くからあったものを、この年に修繕復調して、
祭礼に供奉するようにしたものとも考えられる。

面白い構造をした荷い枠である。
神輿のように、朱の高欄が四面に付いている。

鈴(りん)吊り棒と吹散を掛ける金具が同じ側に付いているので、
正面がどちらになるのかがハッキリしない。
しかし、据え置く鉾として見たら、吹散=幡(ばん)は全面に垂らすことになる。
しかし、巡幸時の荷い枠には、見送りを掛ける鳥居が付いている。
見送りを後に流す形で巡幸するのかもしれない。
その場合は、鈴(りん)は止むを得ず、後ろ側に吊るす形になってしまう。
その辺りの構造に、据え置く鉾なのか、神輿に供奉して巡幸する剣鉾なのか、
構造上の問題はあるものの、なかなか面白い発見である。
氏子の方に剣鉾に関してお尋ねしてみたい。
