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Posted by 京つう運営事務局 at

2018年09月11日

剣鉾・顔面カタログ 「新日吉神宮 五番鉾 客人御鉾 稲荷町守護 」




新日吉神宮の鉾は、一番から七番まで、七基の鉾が存在している。

御祭神である山王上七社、つまり、

 ・大宮
 ・二宮
 ・聖真子(宇佐)
 ・八王子(牛尾)
 ・客人(白山)
 ・十禅師(樹下)
 ・三ノ宮

の七社の鉾が、かつては林立して神輿を先導していた。

この五番鉾は、白山宮・客人(まろうど)の御鉾で、

毎年、当家は松明殿稲荷社になっている。

中央の三本杉は、白山宮の神紋である。  


Posted by どせうの寝床 at 07:00Comments(1)新日吉神宮

2011年06月11日

新日吉祭2011 大宮鉾の当家飾り

今年の新日吉神宮の神幸祭で、

大宮町の大宮鉾が数十年振りに居祭りながら当家飾りされた。

昨秋から始まっている市の剣鉾悉皆調査に、神社より各鉾町に協力要請があって実現したと聞く。

去る5月14日、当家さんを訪れて、お話を伺いながら撮影をさせていただいた。






額の中央には、日輪に八咫烏(やたがらす)。






鈴(りん)の縁には、銘はなかった。







額の表が日輪に八咫烏であったので、裏側は約束通りに月に兎。




大宮鉾とは久しく会っていなかった。
振り返ると、昭和55年以来、30年以上のブランクを経ての再会となった。
大宮鉾は、以前と変わらない姿で当家さんの土間に立っていた。
唐草に菊の御紋を左右に大きく配して、美しい錺の剣鉾である。

元々は、山王上七社・大宮の御神紋である"牡丹"に獅子を意匠にした鉾であった。
神社に残る古文書や新日吉祭を描いた祭礼図には、その大宮鉾が記録されている。
寛政四年の御寄附の後、幾たびかの修繕、もしくは大火による焼失の後の再興を経て、
現在の姿になったのだろう。

以前の当家飾りでの大宮鉾の写真が、ピン止めして付けられていた。



ところで、久方ぶりに大宮鉾を見て、吉田今宮社の「唐胡麻(とぐるま)鉾」の額の造りと、
瓜二つであることに気付いた。
これは、製作した錺師・工房が同じであったのかもしれない。


当家飾りの祭壇である。
最上段には、小さな厨子の扉を開いて置かれていた。



吹散も、ほとんど傷みがなく、美しい状態を保っている。






   
   ※クリックすると、拡大画像で見れます。
      ↓ 


ここに、「平成22年、振鉾が数十年ぶりに復活しました」と書かれている様に、

昨年の神幸祭で、六番鉾の十禅師鉾が鉾差し巡行を行った。

剣鉾が出ていた当時を知る氏子の方々からは、

「懐かしいなぁ、こうやった、こうやった」という声が聞こえた。


書かれている内容を、あらためてここに記述しておく。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ◆新日吉神宮神幸祭 (小五月会・こさきのまつり)
 
 【由緒】
 後白河上皇は、新日吉社を創祀され宮中行事「小五月会(こさきのまつり)」を
 新日吉社の祭儀とされました。(1169年 平安時代最後の頃です。)
 戦国時代に中絶しましたが、江戸時代の1665年に復興しました。 ※1
 その後350年以上の間、氏子巡幸の儀を行って現在に至っています。
 天明七年(1787)、禁中の命令(女房奉書)を賜って祭礼を行う例となり、
 更に、寛政四年(1792)~十一年に、御所(禁裏・仙洞・女院・中宮)より七本の
 振鉾がご寄進せられ、日吉の神の名や社名を町名に戴く菊浜組の町々で保管、
 供奉するように仰せ下されました。
 寛保三年(1743)に神輿が現在の修道組、貞教組の町々へ永代お預けになり、
 以来、神事当町として、神輿(鳳輦)・大榊・幸御鉾を護持し奉仕を続けています。
  (※1 復興は妙法院門跡のお力によります)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 【振鉾(剣鉾)】
 平成22年に、数十年ぶりに振鉾が復活しました。
   ・第一番鉾   大宮御鉾    大宮町守護
   ・第二番鉾   二宮御鉾    下二之宮町守護
   ・第三番鉾   聖真子御鉾   上二之宮町守護
   ・第四番鉾   八王子御鉾   新日吉町、八王子町守護
   ・第五番鉾   客人御鉾    稲荷町守護
   ・第六番鉾   十禅師御鉾   日吉町守護
   ・第七番鉾   三宮御鉾    聖真子・岩滝・波止土濃・八つ柳の各町守護
 
 ※だだし、聖真子御鉾は現在行方不明。十禅師御鉾と三宮御鉾は、神社に還ってきている。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~



他にもある道具類を、当家の方に見せていただくことができた。
以前には、他に、壊れた箱やぼろぼろになったものがあったそうだが、
整理して使わないものは捨ててしまったとのことであった。



剣先の表面は薄黒く変色していたが、亀裂や断裂などの損傷は見られなかった。



剣尻には、「昭和九戌年拾月吉日新調 大宮町」と銘が見える。



剣先が入れられていた箱蓋の裏書は、「明治四拾四年五月拾四日調之」となっている。



この剣先と箱蓋を見ても、疑問が湧いてくる。
現在使われている剣先が、明治44年のものなのか、昭和9年よりも後に作られたものなのか。
なぜ、昭和9年に新調した剣先を使わなくなったのか。
調子が合わないので使えなくなったのだろうか。

ここ新日吉社では、江戸期より剣鉾のことを振鉾(ふりほこ)と呼び、
古文書にもその記述が残されている。
その呼び名は、神幸列に出ている時の鉾の動きと、鉾差しの所作に依るところが大きい。
その動きと所作とはいかなるものであったのか。

今年の新日吉祭で、その動きと所作について、疑問を持つことになったきっかけがある。
実は、ここ大宮町の当家さんで、「昔、鉾差しは滋賀から来ていた」という話を聞いたことである。
驚いた私は、さらに詳しく聞き込んだが、それ以上のことは知っておられなかった。
初めて聴く話でもあるし、何かの勘違いではないかと、最初は考えた。
というのも、新日吉社は近江坂本の日吉社を勧請している。
そのことから、坂本の駕與丁(※かよちょう)が新日吉社の神輿を舁きに来ていた、
という時代があったのではないか、と考えたりもできる。
そして、そのことが、鉾差しが滋賀から来ていたという、口伝につながったと考えたのだ。
事実、下御霊神社の祭礼では、
昭和11年当時、日吉社の駕與丁たちが神輿(現在居祭りとなる大宮神輿)を舁きに来ていた。

『新日吉神宮略史』のp48、「三.新日吉小五月会の概要と御神輿」の項で、
その年表に以下のような記述がある。

・明治四年五月十四日  新日吉祭礼小五月会
                例年の如く、振鉾七本供奉、神輿渡御の儀を斎行す。
                然るに本年は勤仕の輿丁断りし為、角力の力士八十名をして舁がしむ。
                しかし、馴れざる技の事とて、道中にて十三度落とし、神輿は大破せり。
                以下略

明らかに、神輿を氏子の奉仕で舁いていたのではなく、他所より舁き手を呼んでいたことが伺える。
また、神輿は例年の輿丁供給先からの断りで、渡御ができるか危ぶまれたが、
振鉾は何の問題も無く、神輿巡幸に供奉することができた様である。
神輿の舁き手の供給地とは関係のない、また別の地に、鉾差し(振り)の供給地があったようである。


しかし、その滋賀鉾差し説は、別の方の話で再び息を吹き返すことになる。
それは、列方(神幸列の滞りのない進行を担当する役)をされている方から、
15日の神幸祭の巡行休憩時の会話の中で、私の問い掛けに対する返事ではなく、
その列方の方から、偶然に鉾の差し手が滋賀から云々という話が出てきた。
その内容というのは、鉾差しが滋賀から来ていたということに加えて、
駕籠(かご)にかかわる職の束ね役の人物が、鉾差しの手配をしていたという。
時代が、近世なのか、明治以降の話なのか定かでない。
その点は、もう少し調べなくては、何ともいえないところである。

その振鉾(ふりほこ)という呼称は、
京都でもその様に呼ぶ場合もあるし、そう呼ぶ人もおられるだろう。
しかし、概して京都においては、鉾(ほこ)ないしは剣鉾(けんぼこ)である。
時には、剣さん、鉾さんと、
京都独特の方言で、敬い、かつ愛情を持った表現で、”さん”付けで呼ぶことも多い。

そして、振鉾(ふりほこ)が出てくれば、自然と「鉾振り」という動きを表現する言葉が浮かぶ。
その「鉾振り」で思い出したのが、大津市大江(瀬田)・若松神社の「大江の鉾振り」である。
近江にも数多存在している剣鉾の中でも、
今尚、技の継承がなされながら、鉾が立って神幸列に供奉している例は、若松神社だけである。
その鉾振りが、滋賀鉾差し説と、俄かにつながり始めたのだ。
まだまだ、空想のレベルの話でしかないが、調べなおしてみたいテーマである。

因みに、この若松神社の春祭りについては、今年の4月から、練習・本祭りと4回に別けて伺い、
練習風景と本祭りの状況を詳しく拝見しながら、鉾と鉾振りの特徴を観察することができたので、
あらためて詳しく報告する。

話は戻るが、ここ新日吉神宮の新日吉祭の剣鉾に携わってきた人たちが、
今まで考えてきた京鉾の鉾差しとは別の流れを持つ集団であるかもしれないということである。
それが、滋賀に関係のある人たちによって、行われていた可能性を示しているのである。
これは、鉾差し(振り)を担ってきた人たちの系譜を辿って行く上で、重要なヒントを与えてくれそうだ。

 ※駕輿丁(かよちょう)/坂本・山王祭の七基の神輿の舁き手、あるいはその集団の呼称。
       広芝駕輿丁、至誠駕輿丁、中部駕輿丁、下阪本駕輿丁の四つの駕輿丁がある。

これで、大宮町の当家さんを後にしたのだが、
大宮鉾が差鉾として神幸列に供奉していた当時の姿を伝える、貴重な写真が残されている。
それを最後にご紹介しておく。
現在、居祭りとなって、祭礼時にも神輿庫に収まっている大神輿が、
拝殿に奉安されている様子も写されている。

  ※「神社信仰の実態と霊魂の存在」藤島益雄著/昭和46年5月1日より抜粋



この写真は恐らく、巡幸供奉の支度を終え、神社へ向かう直前に、
大宮町で撮影されたものではないかと推測される。
時代の特定は難しいが、背後の民家が、
大正九年に施行された市街地建築物法施行規則(★記事末参照)に定められた基準を
全うするものと見えるので、それ以降の撮影ではないかと思われる。
つまり、京都の典型的な町並みである、低い天井に虫籠窓(むしこまど)を備えた町家は、
法律によって建築が難しくなった。
因みに、右手奥の町家は、昔ながらの京町家の様子を見せている。
二階部分の構造を比較していただきたい。



長柄を地面に下ろしているにもかかわらず、大屋根を遥かに凌ぐ高さである。
鉾差しがさらに差し革に剣鉾を載せたならば、その高さはさらに増して、
首一つ突き出した剣鉾が、甍の海を渡っていくが如くに見えたであろう。
現在残っている鉾頭部分の寸法から計算して、
長柄の長さが約5m60cmほどあると推定される。
一般的に長柄の長さは、5m20cm~5m50cm位が標準であることから、
この大宮鉾の長柄は長い。
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Posted by どせうの寝床 at 12:16Comments(2)新日吉神宮

2010年05月02日

新日吉神宮・六番鉾 試し差し

昨日5月1日、新日吉神宮境内で六番鉾(日吉町守護)の試し差しが、

9日の神幸祭(新日吉祭)を控えて行われました。

宮司のお話によると、昭和30年代以降、剣鉾を差しての巡幸は絶えていたとのこと。

そうすれば、今回の復活が約50年前後振りということになります。
















まねきに、文政五(1822)年五月の銘。




出ました!お馴染みの”錺師 建仁寺門前 浦井庄左エ門”。




差した時に光り輝くように、まねきに磨きを掛けます。




この漆塗りに禁裏御所御寄附の文字が書かれているのは、吹散りの箱にです。





鉾の当家飾りに使う燭台。明治十四年五月の箱書き。









どんどん組み上がってゆく。







いよいよ組み上がった。

































新日吉神宮・神幸祭(新日吉祭):5月9日。




  


Posted by どせうの寝床 at 02:06Comments(2)新日吉神宮